練馬区での社会科教師、そして和光学園で働く中で、子どもたちに生きることの大切さ、憲法の平和と民主主義の理念を生かしたい、住民の利益に奉仕できる日本の政治をつくりたい、と意欲を燃やしていました。


私の生い立ち その1

幼年期から中学まで

  
 私は、1950年東京国立に生まれました。父は国鉄の車掌をしていて戦後まもなく日本共産党に入党しました。父は、党の国鉄細胞(支部)の会議で、生まれた私の名前を議論して、「人民のために役立つ人間になれ」という思いを込めて「民夫」にすることをみんなで決めたそうです。「みんなの知恵でこの名前をつけてくれた」と大変誇りに思っています。

 私が生まれた年は、アメリカ占領軍とその政策への批判は「占領政策違反」できびしく弾圧し、アカハタの発行禁止、デモと集会の禁止という、民主主義がねこそぎうばわれた時期でした。その結果、50年7月からのレッドパージで1万2000人が職場を奪われました。父もその一人で国鉄の職場を奪われ、生活はどん底になりました。当時日本共産党は「50年問題」という大変困難な時期でしたが、父は党の旗をまもってたたかいました。サンフランシスコ平和条約と日米安保条約反対の渦の中、1才半の私は父の肩車でデモに参加。父の温かみを肌で感じていました。
 当時刑務所や警察大学校の付近にあった中野区立第9中学校に入学したのは、東京オリンピックの1年前でした。

 勉強が嫌いで遊びの好きな私の最大の楽しみは、授業の後のマラソンです。毎日4キロを走り、汗をかきました。なぜ走るのが好きか。苦しくてつらいことなのですが『ここまで走り抜く』その気持ちとのたたかいだからです。学校の帰りには、きまってパンのみみを5円分買って(袋いっぱい)かじりながら空腹をいやしました。
 この一方で、国語・美術・家庭は大変良い成績だったのが、今でも不思議です。

 

 


15歳で民青同盟に加盟

 

 私が中学一年生の時、その父がはじめて中野の区議会議員選挙に立候補しました。演説したり街中に貼り出されたポスターの「日本共産党・たぞえ」に驚きました。いたる所にはりだされたポスターにはずかしくて、ポスターをさけて歩いていました。学校では「未来の区議会議員」とあだ名がつき、増々はずかしかったことを今でも覚えています。父が当選して取り組んだのは、新宿の高層ビルの電波障害の解決。いま自分が、六本木の再開発ビルがおこした電波障害に取り組むとは思ってもいませんでした。
 中学時代に陸上部でならした足を、高校にはいっても運動部で発揮しようと、運動のさかんな世田谷の私立駒場学園に入学しました。世田谷に足を踏み入れた1年目になります。
 さっそく野球部に入部の手続きに行きました。そこで青い丸坊主の頭が目に入りました。とその途端エースになる夢を捨てたのです。多少、髪におしゃれだったので、自制心がはたらいたのでしょうか。
 結局ブラスバンド部に入部。すごい転換です。アルトホーンやトランペット、フルートを吹きながらの高校生活のスタートです。
 この時、知人のすすめで民青同盟に加盟しました。人々の暮らしを良くし苦難の解決のために、また、社会正義をつらぬく父のがんばる姿を見て、「自分もこの父のような生き方がしたい」と強く思い、15歳の誕生日に民青同盟に加盟しました。

 


 

私と日本共産党 その2 高校、大学時代

いつもそばに共産党員が “あこがれの先生は共産党員”

 

 世田谷の高校に入学して、生徒会活動やベトナム反戦の運動などにがむしゃらにとりくみました。これらをとおして、高校に民青同盟班をつくり、20人の同盟員のキャップとして活動しました。しかし、青春は楽しい毎日だけでなく勉強のこと、友だちとのこと、進路などに悩む毎日で、山に登って元気を取り戻すことも、たびたびありました。
 進路か就職かを悩む3年生の冬、担任の先生が家にきて、二時間近くも話しをしてくれました。「たぞえ君の人生は一度しかない。働くのはいつでもできるから、大学に行って勉強して、みんなが幸せになれる世の中をつくるような人になれ」と励まされ、大学進学を志しました。悩み、苦しんでいる若者に、夢をさまたげている原因を理性と科学の力で分析して、それをとりのぞき、階段を一歩、一歩登っていく。まるで魔法の先生でした。笑顔で援助してくれる楽天的な先生。この先生は、日本共産党員でした。「自分もこの先生のような生き方をしたい。自分も共産党員になって、生涯を人のために生きたい」と大学進学が決まった直後に、まよわず日本共産党に入党しました。
<真実を伝える教員になりたい>
 大学に入り、将来は教員になろうと漠然と考えていましたが、3年生の時、「沖縄を日本に返せ」とデモ行進している時に逮捕されてしまいました。デモ行進していて警官に殴られ、ふんずけられ自分の主張が押さえられたことに、びっくりしました。同じ留置所に入っている暴力団組員には差し入れも、タバコも、外での日光浴も許されているのに、民青であることで自由まで束縛されました。4日間の取り調べは苦痛の連続でした。なぜ,正義が不当にもゆがめられ人権をはく奪されるのか、人権がどれほど大切なものか、肌で学んだ4日間でした。
 このたたかいの事実をどうしたら伝えられるか、それは、日本共産党員として教育の現場で真実をつたえる仕事しかない。この信念が卒業後、教員としての道を歩ませることになりました。



都議会議員選挙に立候補


 そんな時、「私学助成の拡充など私学の声を都政へ」と、都議選への立候補の要請がありました。職場の同僚たちとの三宅島旅行で紹介すると、みんなから「都政の場で東京の教育のためにかんばって」と激励をうけました。仲間たちは、新しい政治の舞台での活動への船出を励ましてくれました。
 子どもたちの成長を願って日々活動し、国民の自由と幸福に人生をかけている党員の仲間たちがそばにいる。このあったかい人々とともに、たたかえば必ず勝利できると確信しました。
 当選し、議員になったとたんに生活相談が殺到しました。「足が悪いので団地の5階から下の階にうつれないか」「道路に穴があいて車が通ると石が飛んでくる、ふさいでほしい」「マンション建設でおばあちゃんの寝床が日陰になった。交渉して日をあてさせてほしい」「犬にかまれた。柵をしてほしい」……。人々の暮らしの苦しみの大きさをあらためて知りました。
 こんなにも相談が寄せられるのは、国民の苦難を少しでもへらしまわりの人々の利益のために活動している日本共産党が、国民の中に溶け込んでいるからと実感しました。私は、みずからの足で現場にいき、声と要求を聞き、それを政策にして、議会でしめしてきました。

 



日本共産党の都議の議席の役割 ――都民要求をかかげて


 私の初質問は、東京都が決めたゴミ袋に名前を書かなければ収集しないという強権的な施策を発表したことに対してでした。かざした袋のなかには1日600件もの電話で寄せられた都民の怒りの声が詰まっているという思いで、プライバシーの侵害を許すわけにはいかないと都を追及し、名前を書かなければ収集しないという方針を撤回させることができました。12年前でした。
 また、ディーゼル車の排ガス規制問題でも、世田谷区では毎年300以上の子どもたちが大気汚染患者として認定されいまでも2千人をこえる子どもの患者がいます。その子どもたちの苦しみの声、幹線道路沿いの小学校のプールサイドがいつも排ガスで真っ黒になっていて、子どもたちの足の裏はコールタールのように真っ黒になったままプールに入らなければならない姿を語り、メーカーの社会的責任、ディーゼル車の排ガス規制の実施を求めました。
 世田谷を流れる野川の清流復活の問題でも川の中を歩いて5時間、源流にたどりついた時にJR武蔵野線のトンネルの中でごうごうと流れている豊かな地下水をみつけました。JRが工事のために豊かな源流の水を下水道に毎年50万トンも投げ捨てていたのです。JRの責任を追及して、捨てられていた水が野川の清流にもどってきました。魚も鳥たちも、緑も、いま周辺の豊かな自然がよみがえりました。
 これらの質問が都政を動かしてきました。日本共産党の議席は、都民の声をつなぐパイプ、悪政をきびしくチェックする世田谷での議席としてその真価を発揮してきたと思います。



日本共産党の都議の議席の役割 ――住民と議会をつないで


たぞえ議会質問 日本共産党の都議会での13人の議席は、都民の声を都政につなぐ太いパイプです。また都民いじめの都政を明らかにしている議席です。
 同時に、石原都知事の福祉・医療切り下げや、都市再生の名のもとにかつてない規模の大開発推進の提案にすべて賛成している自民党・公明党・民主党などオール与党の悪政に毅然と反対している議席です。
 この議席は、都民の暮らしの向上のためのさまざまな政策を提案し、都民要求を都政に反映させる大きな力をもっています。この議席を増やしてこそ、都民が主人公の都政への道が開けるのではないでしょうか。
 今、子どもたちをめぐる痛ましい事件や犯罪が、毎日のようにおきています。子どもは、次の世代を担う宝物です。大人みんなが目をむけ、みんなで見守り、子どもたちが大切にされるには、世の中全体や大人社会全体が考え直す時だと思います。
 この子どもたちを守るために、大人と政治は何ができるのか。中学1年生だった私のいとこは、ぜんそく発作で病院にはこばれる途中、救急車の中で若い命を失いました。受け入れてくれる病院が見つからなかったからです。こんなことは二度と繰り返させてはなりません。
 私は、都立こども病院を世田谷につくって、子どもの命が救われるようにしたいと決意しています。すでにこの願いの署名は、5万筆をこえました。「子どものための病院を増やして欲しい」――この思いに、日本共産党はこたえなくてはなりません。いま、国立成育医療センターには、毎夜80人の子どもが救急車などで運び込まれてきますが、病院が足りないのです。都立梅ヶ丘病院を子どもの総合病院に拡充して、政治の責任で、子どもたちの命を守ることができるようにしたい。子どもたちの瞳が輝く東京をつくるために、また、介護・年金の充実で豊かな老後をささえる東京をきずくために、私、たぞえ民夫を都議会で働かせてください。全力でがんばります。