里吉ゆみ プロフィール

1967年、東京都八王子市生まれ。都立日野高等学校卒、帝京大学文学部社会学科卒業。 
自動車火災保険勤務、党都議団事務局員、2003年4月より世田谷区議会議員3期。保健福祉常任委員、文教常任委員、都市計画審議委員、災害・防犯・オウム問題対策特別委員会委員長など歴任。 
2013年7月より都議会議員1期。都議会文教委員会副委員長、消費生活対策審議委員、(財)東京都スポーツ文化事業団評議委員 
家族は、夫、一男、猫 

 

あ  ゆ  み 

誕生から小学生

 私は、1967年生まれました。両親は小学校の教員で、日本共産党員という家庭でした。 
生まれたとき、足に障害があった。手術もできたが、両親がこんな小さい子どもの体にメスを入れるのはかわいそうと、手術ではなく通院で直すことをえらんだようだ。私の足は右足のかかとの骨がへこんでいたため、靴下が合わなかった。母は私のために、かかとのない靴下を編んでくれました。足の治療はつらかった記憶はあまりない。それより、病院でギブスをはめられると、お風呂に入るのが一苦労だった。ギブスをラップでぐるぐるに巻きその上からビニールをかぶせ、さらに湯船に入るときは、片足を湯船に乗っけてぬらさないようにするのだから、大変だった。そんな生活が小学校の途中までつづいた。矯正のため、重たい革靴を履いていたので、体育は苦手な子どもだった。 
 保育園に通っていたが、いつもお迎えが最後だった。先生と二人で待っていた記憶がある。熱を出すと、市内に住んでいた祖父母に預けられた。でも、病院にいく日は、両親のどちらかが学校を休んで、連れて行ってくれた。小学校の先生が学校を休むというのは、今にして思えば、大変なことではなかったかと思う。病院の近くに東京タワーがあり、よく東京タワーにつれてってもらった。両親が忙しかったため、病院にいく日は親と一緒にいられて楽しかった記憶がある。 
 私が4歳のとき、妹が生まれた。父の話によれば「ゆみちゃん、お姉ちゃんになったね。おめでとう」といわれた私は、その日からすっかりおねえちゃんになってしまったそうだ。確かに、私はよく妹の面倒を見ていたと思う。両親は共働き、また組合活動や日本共産党の活動など忙しく日々をすごしていたので、当然のようにそうなってしまったという感じである。寝る前に、本を読んであげるのは、すっかり私の仕事になっていた。 
 両親は、普段はほんとに急がしそうで、父はほとんど家にいなかったし、母も家でよく仕事をしていた。でも、夏休みや冬休みには必ず家族旅行に連れて行ってくれた。そういう意味では、寂しい思いもしたが、両親の愛をいっぱい受けてすくすく育ったというところであろうか。 
 放課後通っていた児童館は、高学年になっても通っていた。友達の家に遊びに行った日でも夕方になると妹を迎えにいっていた。ここでの行事「きもだめし」や「クリスマス会」は子どもたちも企画に参加して、とても楽しかった。かぎっ子という思い出はない。 

中学、高校時代

 足の治療が終わった私は、何かスポーツをやりたいと思っていた。苦手を少しでも克服したかった。当時はやっていた「アタックナンバーワン」というテレビアニメの影響か、背が高かったのでそれを生かしたかった事もあり、「バレーボール部」を選んだ。 レギュラーには当然なれなかったが、結局高校3年まで、バレーボール一色の中学、高校時代を過ごした。 
 私の中学の学区は母親が教えていた小学校と同じ学区だったため、中学1年のとき、6年生で母親のクラスだった子と同じ中学校に通うことになった。その一人から、「里吉先生は、よく戦争を題材にした本を読んでくれたよ。でも、いっつも途中で自分でないちゃうんだ」という話を聞いたときは、少々はずかしかった。でも、何よりも平和を子どもたちに伝えたいという母親の気持ちが痛いほど伝わってくる。このエピソードは私の宝物。 

学生時代~就職
 大学では、社会学を専攻。図書館司書の資格を取った。友人に誘われ、早稲田大学の旅行サークル「みの虫旅の会」に入会。 
 青春18キップや周遊券を使って、安く旅行することをモットーにしていたこのサークルで私は、日本各地を旅行した。小さい頃から家族で旅行をしてたからか、これにはすっかりはまってしまった。毎日大学が終わると、バイト、休みの日もバイトでお金をため、長期休みには、サークルの旅行に出かけるという4年間だった。「とにかく遊んでばかりいた」と親は言う。でも、私にとってはやりたい何かを探している時期だった。学生になって、高校までとは違う自由を楽しんでいた。サークルの仲間と、沖縄の西表島で一週間キャンプしたときは、ジャングルみたいで、本当に日本は広いなあ!!と感動した。沖縄本島から石垣島行きの船は、石垣を出ると、台湾(?)までの国際船に早代わり。東京がすごく遠く感じた。北海道の奥尻島でも、キャンプだった。中学、高校の部活で体力だけは自信があったが、サークルでは大いに役立ったと思う。サークルの旅行だけでは、飽き足らず、一人旅にも出かけた。流氷が見たくて、冬の北海道に行ったときは、それ以外に目的がなかたので、計画も立てずに行き当たりばったりの旅を楽しんだ。 
 学生時代唯一の海外旅行は中国だった。サークルに私を引きずり込んだ友人と女2人旅。約1ヶ月のこの旅も、往復の飛行機と、初日の香港のホテルしか予約せずに、出発。お金はないが、時間だけはあったので、のんびりと旅をしました。飛行機は高いので、移動はすべて汽車。道を聞いた中国人の学生さんと友達になり、「餃子が食べたい」といったら、「餃子は家で作って食べるもの。明日家においで」といってくれ、家族中でもてなしてくれた。親からみれば、こんな遊んでばかりの私が、親と同じ日本共産党に入ったのだから、びっくりしただろう。就職一年目の春、日本共産党に入党。 
 親の活動を、尊敬しつつも、私は政治なんて関係ないとずっと思っていた。だから、私も自分がまさかこういう活動をするようになるとは、当時思っていなかった。きっかけは、いくつかある。大学4年の時に、湾岸戦争がおきた。日本では、この戦争に協力していこうという流れが起きた。この報道を見ていた私は、今何か行動しなければ、絶対後悔すると思い、初めて国会要請行動や、集会に出かけた。このとき、日本の自衛隊の海外派兵が狙われたが、私たち国民の大きな反対世論で阻止することができた。このとき、思い切って声を上げてよかったと思った。社会や政治って私たちの力で変えられるんだと思った出来事だった。また、私の住む八王子の高尾山にトンネルを掘る計画、圏央道計画に反対する運動のなかで、いくら住民が反対しても政治を変えなきゃ変わらないと思い、都知事選挙、市議選挙を戦うことに。高尾山を守るために、とにかく必死に何でもやった。友人に電話をかけて支持を訴えたり、宣伝カーのアナウンサー、など。そのために毎日政策や日本共産党のことを学んだ。そして、当時の市議候補に勧められ入党した。 
 当時私は、池袋のサンシャイン60の中にあるセゾングループの損害保険会社に勤めていた。半分外資のこの会社は、まだ、新しかったが、女性社員の制服もなく、女性の課長もいたので、女性も働きやすい環境だと思い、決めた。八王子の我が家からは通勤に1時間半以上かけて通勤していた。

民青専従~青年学生部時代(途中)

  日本共産党や民青での活動は、毎日忙しかったが、充実していた。仕事が終わると事務所に直行し午前様は当たり前だった。でも「私がやりたかったことを見つけた」という気持ちだった。社会の仕組みを勉強することは、本当に楽しかったし、自然を守る活動、核兵器反対の運動、駅前の駐輪場有料化反対の運動、就職難の青年のために合同説明会を八王子市に開催させたこともある。 

都議団事務局時代

 都議団では、都市計画・環境委員会と文教委員会を担当した。